絵札 | 解説 |
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あぶないよ バルカン半島 火気厳禁ドイツを中心とするパン=ゲルマン主義と、ロシアのパン=スラヴ主義との対立は、バルカン半島での勢力拡大競争に及んだ。両陣営による一触即発の緊張状態から、同半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。 |
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一家団欒 ちゃぶ台囲んで 楽しいなちゃぶ台は、四本脚の食事用テーブルのこと。基本的には脚が折りたたみ式になっているものが多い。 |
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上野駅 メーデー会場 最寄り駅メーデーは、世界各地で5月1日に行われる労働者の祭典。もともとヨーロッパでは資本家(雇い側)と労働者(雇われ側)が日頃の対立を休止して夏の訪れを祝う日であったが、近代に入り労働者側が権利を要求する運動に変わっていった。 |
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越中の 女房一揆だ 米騒動米騒動は1918年7月、富山県水橋町(現・富山市)で主婦たちが米の出荷を抗議することから始まった。当時、シベリア出兵に伴う米価高騰を狙った商人たちの米の買い占めや売り惜しみがさらに米価を高騰させることになった。さらに、大戦景気で都市労働人口が増加する一方で、農村の生産人口が減少するというアンバランスも生じていた。また、その農村では寄生地主制の進展に伴い、小作人の労働意欲の減退なども問題となっており、あらゆる要因が重なって米騒動につながったのであった。ときの寺内正毅内閣は事態を収束できずに総辞職。 |
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面白くてためになる 大衆雑誌キング日本の出版史上、レジェンドとして語り継がれているのが、大日本雄辯會(ゆうべんかい)講談社(現・講談社)が発行した大衆娯楽雑誌『キング』である。1925(大正14)年の創刊号でいきなり74万部を売り上げ、2年後には100万部を超えた。セールスの背景には、新聞・雑誌への広告やパンフレットを作ったり、ちんどん屋や紙芝居まで動員するといった熱烈な宣伝費の投入があった。「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数 」をキャッチフレーズに、のぼりを立てて宣伝した。価格も『中央公論』などの総合雑誌が80銭だったのに対して、『キング』は約400頁(ページ)で50銭と安く、時代小説や伝記・実用知識といった大衆受けする内容も人気を集めたのである。 |
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海軍の 汚職で沈没 シーメンス1914年、軍需品の購入をめぐり、ドイツのシーメンス社(ジーメンス社)と海軍高官との贈収賄が発覚した事件。さらにイギリスの武器製造会社ヴィッカース社も軍艦「金剛」の建造に関して汚職事件が発覚し、ときの第一次山本権兵衛内内閣は総辞職に追い込まれた。実際に賄賂を受け取っていたのは海軍の高官であったが、山本権兵衛は海軍出身であったため、海軍全体が腐敗しているとの攻撃を受けたためである。 |
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きょうもコロッケ あしたもコロッケ大正時代、三大洋食として人気だったのがコロッケ・トンカツ・カレーライス(ライスカレー)である。なかでもコロッケは、もともとはフランス料理の「クロケット」がルーツであった。クロケットは各種材料の形を整えながらフライ衣をつけて揚げた料理であるが、本来は具材にじゃがいもは入っていなかった。現在日本でコロッケといえばじゃがいもが入っているのが定番であるが、入れるようになった背景には外国船が長崎に持ち込んで広まったという説や北海道の開拓に伴って栽培が奨励されたという説などがある。 |
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黒船屋 竹久夢二の 代表作明治から昭和初期にかけて活躍した画家・竹久夢二は、多くの美人画を残した。独特の画風で描かれた作品は「夢二式美人」と呼ばれ、夢二自身は「大正の浮世絵師」とも称された。 |
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原始、女性は実に太陽であった1911(明治44)年、平塚明(はる、雷鳥とも)は雑誌『青鞜(せいとう)』を刊行した。その創刊号に載せたのが冒頭の文言である。さらに「真正の人である。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。偖てここに青鞜は初声を上げた。・・・」と続く。 |
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国体の 変革許さぬ 治安維持法戦前の弾圧法規の中でも悪名高いのが1925(大正14)年に制定された治安維持法である。護憲三派内閣として成立した加藤高明内閣によって普通選挙法成立直前に立法された。目的は、国体の変革(天皇制の否定)と私有財産制の否認(資本主義を否認)を目的とする結社を取り締まることである。普選の実施による社会主義の拡大、日ソ国交樹立後の社会主義運動の高揚に備えたものであった。10年以下の懲役・禁錮の罰則であったが、1928(昭和3)年に最高刑が死刑に引き上げられ、1941(昭和16)年には予防拘禁制を導入した。戦後の1945(昭和20)年、GHQによって廃止となる。 |
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サラリーマン いつかは住みたい 文化住宅大正から昭和初期に流行した文化住宅とは、郊外に建てられたガラス戸・赤瓦の屋根のある洋風の応接間を持つ日本式の住宅(要は和洋折衷の家)。都市部への官庁や会社へ通勤するサラリーマンを中心とする中産階級の住宅である。なお、ジブリ映画の『となりのトトロ』に登場するサツキとメイの家も文化住宅風の造りをしている。 |
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将来は アナーキストかタイピスト大正時代はアナーキスト(無政府主義者)の活動が目立った時代である。アナーキズム(無政府主義)とは、国家を望ましくなく不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を訴えるのが特徴である。 |
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水力が 火力をしのぐ 発電量1912(大正元)年、水力発電の出力(23万3000kW)が火力発電の出力(22万9000kW)を超えた。 |
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世界中 敵に回した 211915(大正4)年、第2次大隈重信内閣は中国における利権拡大を目指して袁世凱政権に対して二十一か条の要求を突きつけた。(1)山東省ドイツ権益の譲渡、(2)南満州・内モンゴル権益の99カ年延長と、鉄道敷設権、(3)漢冶萍(かんやひょう)公司(こんす)の日中共同経営、(4)福建省を他国に譲らず、日本の勢力範囲内にすることの承認などを要求した。第一次世界大戦で列強の目が中国から逸れた隙を狙ったドサクサ的な動きであったが、その内容は、元老山県有朋でさえ「訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策」と述べて難色を示すほど無茶なものであった。 |
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造船所のストライキ 甲子園のストライク1917(大正6)年は「ストライキ運動飛躍の年」といわれた。ストライキが件数でも参加人員の点でも急増した。1915年までは年間50件前後でしかなかったことや、参加人員も8,000人に満たなかったが、1917年には398件、5万7,309人に達したのである。1918年、19年とストライキはさらに増え続けた。とくに造船所、製鉄所、軍工廠、大鉱山など日本資本主義の根幹をなす大経営で争議が頻発し、労働組合が結成された。このような背景にあったものとして、第一次世界大戦を機に日本資本主義が急速な発展をとげ、これに伴って労働者階級が量的、質的に成長したことが挙げられる。 |
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大都会 お洒落に着飾る モガとモボ1920年代(大正9~昭和4年)の都会に、西洋文化の影響を受けた男女をそれぞれモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)という。日本は第一次世界大戦に伴う大戦景気によって豊かになり、産業発展が女性の進出を加速させ職業婦人も増加していった。上流階級のものとされていた洋装もしだいに若い男女に広がるようになり欧米の流行や風俗の一部を取り入れるようになった。 モガの典型的な特徴としては、スカート丈はひざ下で釣鐘型の帽子(クロシェット)をかぶり、髪型はショートカット(ボブカット)、引眉、ルージュや頬紅などの化粧を施すものであった。一方、モボは山高帽子にロイド眼鏡、ダブダブなセーラーズボンなどが挙げられる。 |
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青島は 断じて領有すべからず第一次世界大戦が勃発すると、これを「天祐(天の助け)」とした日本は日英同盟を理由に強引に参戦を正当化した。敵国ドイツの、中国における根拠地である山東半島の青島を占拠した日本軍に多くの日本国民も喝采を叫んだ。多くの新聞は政府・軍部を支持したが、『東洋経済新報』の石橋湛山はこれを否定、「青島は断じて領有すべからず」という社説を掲載し、浮かれる日本国民に警鐘を鳴らしたのである。石橋湛山は、朝鮮や台湾などの植民地や権益の放棄を主張し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱したことで知られる。 |
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つらい過去 乗り越えていく 水平社1922(大正11)年3月、全国水平社は被差別民の差別解消のために結成された。その創立の宣言文は、中心人物の1人である西光万吉が起草したものであり「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結んでいる。被差別民の自主的で絶対的な解放と水平・平等な社会の実現を叫ぶ綱領は、阪本清一郎らが起草した。 |
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天ぷらが 大好物の 喜劇王“世界の喜劇王”チャールズ・チャップリンが日本の映画雑誌にはじめて紹介されたのは『キネマ・レコード』の1914(大正3)年7月号だったという。チャップリンはその得意な変装とコミカルな歩き方から「変凹(へんぺこ)くん」という愛称で呼ばれ、同年からチャップリンの映画も日本で公開されるようになるとたちまち大人気となっていった。 |
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虎の門 ステッキ銃が 待ち伏せ中1923(大正12)年12月27日、東京市麹町区虎ノ門外で皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)がアナーキスト(無政府主義者)難波大助に狙撃を受けた暗殺未遂事件が発生した。難波はステッキ仕込みの散弾銃で皇太子の乗る自動車を撃った。弾丸は自動車の窓ガラスを割り、侍従長が軽傷を負ったが皇太子は無傷だった。犯人の難波はその場で取り押さえられ、大逆罪で起訴され翌年11月に死刑となった。 |
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長かった ようやく実現 普通選挙納税額や教育程度などを選挙権の要件としないで、一定年齢以上のすべての成年に選挙権・被選挙権を与える普通選挙は、1925(大正14)年、護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)の加藤高明内閣によって衆議院議員選挙法の改正という形で実現した。これによって納税資格を撤廃して25歳以上の男性に選挙権を、30歳以上の男性に被選挙権が認められた。有権者数は人口の20.8%と急増した。この選挙法改正に基づいて行われた1928(昭和3)年の初の普通選挙では、無産政党から8名の当選者が出るなど、政府は衝撃を受けた。 |
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日本初 世界で羽ばたく バタフライ第一次世界大戦まっただ中の1915(大正4)年、イギリスのロンドンで公演されたオペラ『蝶々夫人』の舞台に日本人ではじめて立ったのが三浦環であった。『蝶々夫人』は作曲家プッチーニによって作られたオペラであり、長崎を舞台に没落藩士の令嬢である蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛を描いた作品である。 |
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抜け道だらけの 工場法日本で最初の労働者保護法とされる工場法は1911(明治44)年に公布された。最低年齢12歳、労働時間12時間、女性・年少者の深夜業禁止などを盛り込んだものであったが、実際は15人未満の工業には適用されず、期限付きで14時間労働を認めるなど、不備な点が多かった。しかも紡績・製糸業資本家の反対で、実施は1916(大正5)年まで延期されるなど、運用には紆余曲折があった。繊維業では労働者をなるべく長時間労働させることで生産量を高めたいという狙いがあったため、労働時間の短縮などはもっての外、と猛反対したのである。 |
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願わくは 舞台に立ちたい 宝塚現在も人気の宝塚歌劇団の創設は大正時代に遡る。 |
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野枝(のえ) 房枝(ふさえ) 菊栄(きくえ)とやたら「え」が多い日本史上に名を残している大正時代の女性は、「○え」といおう名前が多い。当時この「○え」という名前が人気だったかというとそうでもないようである。大正の前半は、「千代」、「千代子」などが人気であり、後半になると「文子」、「幸子」、「久子」なども上位に食い込んでいるが、「○え」は大正年間を通じてトップ10には入っていない(明治安田生命調べ)。 |
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はじめから 足並み揃わぬ 国際連盟国際連盟は1920(大正9)年に、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で成立した史上初の国際平和機構である。第一次世界大戦中の1918(大正7)年、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表し、そのなかで国際的平和維持機構の設立を呼びかけたことがきっかけである。しかし提唱国のアメリカ国内では、従来のモンロー主義(大陸との相互不干渉主義)を唱える勢力もつよく、上院では国際連盟の加盟に否決という結果になってしまった。こうして米・英・仏・日・伊のいわゆる五大国のなかで、アメリカは加盟を見送ることになったのである。 |
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昼時に 都市を襲った 大震災1923(大正12)年9月1日土曜日の午前11時58分、関東地方南部を中心とするマグニチュード7.9の関東大震災が発生した。東京・横浜・横須賀などで大火災が発生したため、当時としては日本史上最大の地震被害となった。電気や水道などのライフラインは完全に麻痺し、政治・経済・社会は大混乱に陥った。「富士山が爆発する」、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだ」など、さまざまな流言が飛び交い、政府は9月2日、戒厳令を施行して軍隊を出動させるに至った。この出来事は海外にも伝えられ、40以上の国から救援物資や義捐金(ぎえんきん)が寄せられた。 |
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プロレタリアの小林多喜二大正・昭和初期に無産階級である労働者や農民の現実を描いたプロレタリア文学の第一人者とも言えるのが小林多喜二である。秋田県の小作農家の次男として生まれた多喜二は4歳の時に伯父の計らいで一家をあげて小樽(おたる)に移った。伯父の工場で働く傍ら学費を受けて小樽高等商業学校(現、小樽商科大学)に進学、在学中から創作活動に親しんだ。この頃から自家の窮乏や当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動にも参加している。 |
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平民宰相 原敬原敬は1856(安政3)年、盛岡藩(現、岩手県)の武家に生まれた。戊辰戦争で盛岡藩は賊軍となり、原家も土地・屋敷や家財を売却せざるを得なくなり、士族という籍も失ったという。若い頃は新聞記者などジャーナリストとして働いていたが、立憲政友会に入党、政界入りを果たした。 |
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北欧を 足袋で走った 金栗四三日本が近代オリンピックに初出場を果たしたのは、1912(大正元)年にスウェーデンで開催されたストックホルム大会である。日本代表は2名で、陸上競技・短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三であった。三島は準決勝で棄権し、地下足袋で走った金栗もレース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱された。金栗が意識を取り戻したのは翌朝であり既に競技は終わっていた(記録上は棄権扱い)。そのため現地では「競技中に失踪して行方不明になった日本人」として有名になった。時は流れて1967(昭和42)年、金栗はストックホルム五輪開催55周年記念式典に招待された。記録がなかった金栗は、オリンピック委員会の計らいで競技場をゆっくりと走りゴールした。「日本の金栗、ただ今ゴールイン。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされ、長いマラソンは終わったのである。 |
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丸ビルは 東洋一のビルヂング1923(大正12)年2月、東京駅前に建設された丸ノ内ビルヂング(通称丸ビル)は鉄筋コンクリート造りで当初地上8階、地下1階でのちに1階ずつ増築され、「東洋一のビル」といわれた。内部には、日本ではじめてビル内を自由に通り抜けられる十文字のショッピングモールを作るなど斬新な構造も話題を呼んだ。丸ビルの完成により、日本のオフィス街の代表的なブランドが確立し、「丸の内に本社を置くことが一流企業の証」と認知されるようになっていった。完成してわずか半年で関東大震災が発生したが、丸ビルは倒壊を免れた。 |
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美濃部博士の 機関説天皇機関説とは、東京帝国大学教授・美濃部達吉らが唱えた憲法学説である。その主旨は、法人としての国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関として内閣など他の機関からの輔弼を受けながら統治権を行使する、というものであった。天皇機関説は1900年代から1930年ごろまで憲法学の通説とされ、政治運営の基本的理論とされて定着していた。 |
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無駄遣い お札を燃やす 船成金第一次世界大戦中の好景気(大戦景気)でにわかに巨利を得て蓄財した人を、将棋の駒にたとえて「成金」といった。鉄と船と株で大富豪となった場合が多かったが、戦後恐慌が起こるとその多くは没落した。和田邦坊の描いた、料亭の玄関で100円札を燃やす成金は有名だが、この100円札は現在の約20万円程度といわれる。 |
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明治に殉じた 乃木大将1912(大正元)年9月13日、明治天皇の大喪(たいそう)の礼が行われたこの日の午後8時頃、明治時代を軍人として駆け抜けた陸軍の乃木希典が夫人とともに自害した。明治天皇への殉死である。 |
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もともとは アメリカ生まれの 福の神陸軍の軍人で総理大臣にもなった寺内正毅は、その風貌から「ビリケン」とあだ名された。とがった頭頂部と細くつり上がった引目、口角を上げて微笑む表情が特徴的なビリケンは、もとはアメリカからやってきた福の神である。1908年、アメリカの女性芸術家フローレンス・プリッツが、夢の中に出てきた神様をモデルとして制作したのが起源と言われる。その後はシカゴのビリケンカンパニーという会社がグッズを制作、販売して世界に広まっていった。日本では1911(明治44)年、大阪の繊維会社が商標登録を行い、翌年、大阪通天閣に併設された「ルナパーク」という遊園地にビリケンの像が安置された。以来、代を重ねて現在は3代目となっている。 |
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“やあ元気?” ニコポン首相 桂太郎桂太郎(1847~1913)は長州出身の陸軍軍人であり、3回の組閣経験がある政治家である。山県有朋の後継者として軍部・藩閥官僚勢力の維持に努めた。立憲政友会を率いる西園寺公望と交互に政権を担当する「桂園時代」を築いたことでも知られる。政党を代表する西園寺と比べると藩閥勢力の桂は旧態依然のイメージもあり、後世の人気はあまりない。特に、第三次の内閣を組閣するにあたって、宮中と府中の別を乱したことは力にものを言わせてやりたい放題というダーティーな印象を強くした。結局、尾崎行雄や犬養毅らが「閥族打破」を叫んで第一次護憲運動を展開、桂内閣は国民の敵役となってしまった。 |
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猶存社 大川周明 北一輝猶存社は、1919(大正8)年に国家主義者の大川周明らが設立した国家社会主義系右翼団体である。通常の社会主義は、天皇制をも否定するが、天皇制の下に社会主義国家を作っていくというのが国家社会主義の思想である。 |
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吉野作造 民本主義の 提唱者美濃部達吉の天皇機関説と並び、大正時代の政党政治に理論的根拠を与えたのが東京帝国大学教授・吉野作造が唱えた民本主義である。吉野は1916(大正5)年、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」を発表した。その論旨は、主権の所在はどこにあるにせよ政治の目的は民衆の福利にあり、政策決定は民衆の意向によるとして政党内閣制と普選の実現を説いたものであった。主権在民の民主主義とは一線を画し、主権在君の大日本帝国憲法のもとで民衆の政治参加を主張した点は予想される批判をかわすことになった。 |
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『羅生門』 下人の行方は、誰も知らない芥川龍之介の代表作の一つ『羅生門』の最後の一文。タイトルの由来は平安京の正門の羅城門からとっている。正式には羅城門だが、羅生門と表記されることも多かった。 |
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陸軍がやりたい放題 武官制1900(明治33)年に制定された軍部大臣現役武官制は、陸軍の政治上の道具となった。気に入らない内閣はこの制度を利用して潰したり、そもそも成立を阻止したり・・・とやりたい放題を繰り返したのである。 |
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ルーティン化した 憲政の常道憲政の常道とは、1924(大正13)年の加藤高明内閣から1932(昭和7)年の犬養毅内閣まで、衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を担当することになった慣例をいう。第一党が総辞職後は第二党に交代する。内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合は、与党の後継党首に組閣の大命が下される(例として加藤高明首相が病死したあとは同じ憲政会の第1次若槻礼次郎内閣が成立。また浜口雄幸首相が狙撃されたあとは同じ立憲民政党から第2次若槻礼次郎内閣が成立したことがあった)。このように昭和初期に立憲政友会・立憲民政党が拮抗して、交代したが、1932年の五・一五事件で犬養内閣が倒れ、挙国一致内閣の斎藤実内閣が成立したことで憲政の常道は終止符が打たれた。 |
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麗子像 娘は 父より有名人大正・昭和の文化作品として多くの教科書や図表に掲載されている「麗子像」。おかっぱ頭でにっこり微笑むその姿のインパクトは大である。一方で、作者である麗子の父についてはあまり知られていない。麗子の父である洋画家・岸田劉生は、東京に生まれた。白馬会絵画研究所に入り外交派を学び、第4回文展に初入選を果たす。後期印象派の影響を受けるがしだいに写実主義に感化されたものや、宋や元画に影響された東洋的作風へと変化していった。 |
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“ろうそく”と呼ばれた加藤友三郎加藤友三郎は、その痩せた風貌から“ろうそく”と呼ばれたが、決して軽んじられるべき人物ではない。日露戦争の日本海海戦では、バルチック艦隊からの砲弾が降り注ぐ中、連合艦隊司令長官・東郷平八郎とともに旗艦「三笠」の甲板に出ずっぱりで全軍の指揮に当たり、部下の士気を鼓舞した。 |
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ワシントン 軍縮条約 結びます1921(大正10)年11月から1922(大正11)年2月にかけて、アメリカ大統領ハーディングの提唱で開かれたのがワシントン会議である。呼びかけたアメリカのねらいは、大きく2つあった。1つは、建艦競争による自国の財政負担を軽減すること、2つめは日本の進出を防ぐことである。特に1つめであるが、これは自国だけが建艦をやめると他国に比べて弱体化してしまうので他国との連携が必要であった。つまり、他国を誘って一斉に建艦競争をやめる方向性を打ち出すことがその最善の方法であった。1922年に、アメリカは英・日・仏・伊を誘って5カ国間で主力艦(戦艦・巡洋艦など)の総トン数保有比率を英米5:日3:仏伊1.67と規定する軍縮条約を結ぶことに成功した。これはどの国も海軍にかける財政負担が軽減され、かつ勢力均衡を維持することが出来たので歓迎された。これまで海軍の軍拡を目指していた日本の「八・八艦隊計画」は挫折することになり、アメリカ第2のねらいも果たされたのである。 |